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牧民世界を分かつ境界神的役割も明確である。ヒンドゥークシュ山脈は両世界の境界に聳える聖なる山であり(図?)、そこの山頂に祀られた毘沙門天はまさにこの土地の守護神で”山の神”なのである。そして、この境界神で山の神
たる毘沙門天石像が手で良き道を示していたことを思うと、サイノ神=道祖神のイメージを彷彿とさせる。日本では、道祖神は手向け神とも混淆溝し、外部から侵入する悪害を妨げる役目のほか、峠越えの時に通行のつつがなしを管掌する。中央アジアと日本とでは地理的に遠くかけ離れているが、境界神=サイノ神のイメージは普遍であろう。ヒンドゥークシュ山頂の昆沙門天は明らかにサイノ神の機能を担っている。
ところで、この雪山の毘沙門天石像が実際ヒンドゥークシュのどこの頂に祀られていたか定かではない。伝記中の昔の聖王が誰かも明らかではなく、ヤシャス以前に北インドと中国とを結ぶカラコルム西脈道(主にクシュクルガン・ギルギット・チラースをつなぐ幹線路)を通った法顕などの記録にもこの像は全く記されていない(図?)。また、ヤシャス以降インドと中国を結ぶルートを通る者は、もつぱらカラコルム西脈道を避け、玄奘が通過したヒンドゥークシュ西脈道を利用する[注?]。雪山の毘沙門天石像は歴史の闇に埋もれ姿を消すことになる。しかし、毘沙門天のサイノ神の機能を重視すると、ヤシャスより約一三〇年前にガンダーラからクチャを経て中国に入ったダルマミトラ(雲摩密多)を護送した迦毘羅神王を想起させる(「高僧伝」巻三・雲摩密多伝)。迦毘羅神王も毘沙門天と同じインド古来の鬼神=ヤクシャに源流を発し、あるいはヤクシャの統領クベーラを出自にもつ可能性がある。迦毘羅神が旅人の安全を守る道祖神的役割があり、しかも昆沙門天と同様にインドのクベーラを起源とするなら、毘沙門天のサイノ神の特徴も実に根源的な要素を秘めているのかもしれない。この点は、後にまたふれてみたいと思っている。
もう一つ、この『続高僧伝』の記事は興味深いことを提示している。それは、昆沙門天と観音の神咒が結びついている点である。中国四川省石窟の兜跋毘沙門天像はしばしば観音像と関連して造られ、また、日本の初期の昆沙門天信仰も観音菩薩との密接な関係が伺われる。例えば、円仁は唐より帰国の際暴風に襲われたが、観音に念じたところ毘沙門天が現れ無事に難を遁れた。その後、円仁はこの霊験に基づき、比叡山横川の根本観音堂(横川中堂)に観音像と昆沙門天を祀ったという(山門堂舎記」)。このことは、まさしく『続高僧伝』を連想させる伝承と言えよう。毘沙門天と観音菩薩との繋がりもヒンドゥークシュ山頂の毘沙門天石像に由来する根源的な要素を含んでいるのかもしれない。

 

◎ヘルメス・ヴァイシュラヴァナ◎

独尊・毘沙門天の原初的イメージがサイノ神に求められるのなら、一体それはどのような思想性に由来するのであろうか。前号で私は、ガンダーラ仏伝浮彫における毘沙門天像の独立化の傾向を探ってみたが、そこの昆沙門天像にはサイノ神の意味合いがほとんど見られない。ただ、田辺勝美氏が指摘した「出家踰城」の場面の弓と甲で武装した昆沙門天像は、釈迦が出家を決意し馬に乗って城門から出るのを先導する役割が付与されており、後に顕著な昆沙門天の議決神的役割と共にシンボリックな意味で、俗世から聖域へと釈迦を引導するサイノ神的役割が機能しているの可能性がある。その点では「出家踰城」の毘沙門天像の頭に付けた一対の翼状装飾がイラン・クシャン系のファロー神(図?)のそれを介在としてギリシア・ローマのヘルメス・メルクリウス神の翼に由来するとした田辺氏の意見は示唆深い[注?]。田辺氏はヘルメス神像ないしメルクリウス神像の特色の一部である翼が、正当かつ正統な王位の投与者のシンボルとしてファロー神の頭部に移植され、その後あるいは同時にガンダーラ仏教美術の(兜跋)毘沙門天像の頭部に応用されたとみている。氏の見解はガンダーラ仏伝浮彫の毘沙門天像が造形化される過程で、ファロー神の像容の一部が借用されたとする説が前提となっているが、私はさらに毘沙門天が独尊の礼拝像として造られていく中で、中央アジアのヘルメス神のサイノ神的性質の影響を受けたのではないかと考えている。ギリシアのヘルメス(ローマではメルクリウスに相当)は明らかに西方世界のサイノ神である。毘沙門天のサイノ神のイメージはインドの中央部ではなく、むしろガンダーラよりさらに北の

 

 

 

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